Kanon をようやく終えた。 最後の「あゆ」には、とても感動するものがありました。
いまさらではあったけど、第 2 期のアニメを放送しているこの時期に一気にやれたのは、とても良かったのだと思う。
まだ整理がついてないんですが、自分的にとても不思議な感覚を味わったので、それを書く。
最後となったあゆシナリオの最中、特に名雪から分岐した先で、「この場面、見覚えがあるぞ」「これ読んだ覚えあるわ」という感触を、そして「この次の台詞は○○」「次の場面はこーなってあーなる」という先読みを、いろいろな箇所で得た。
ただそれは、ラジオドラマとか第 1 期のアニメとかを目にしてたので、そんな記憶の断片が呼び起こした既視感なんだろうとは思う。 まあ現実的な落着点として。
それでも興味深く思えてならないのは、その既視感というべきものが、あゆシナリオの結末部分や、あの事件や、そしてラストのエピローグ的シーンといった、物語の核心の部分については発揮されなかった、ということだ。
……要するに、自分の中にはあゆシナリオの歯抜けの記憶があったのだ。 それは、まるで祐一のように。
Kanon 発売から、7 年経つ。
もしかすると、実は発売当時にあゆシナリオだけ終わらせていて、でもプレイしたことすら忘れてしまっていて、そして今、7 年という月日の後にまた Kanon に出会えたのかもしれない。 そんな御都合的な「奇跡」を信じたくなった。
まあ、それは唯のセンチメンタルだよな。 きっと、自分を特別に思おうとしている無意識が見せる、「夢」みたいなものなのだろう。
しかし、その感傷が故に、Kanon の世界に入ってるときの、祐一への一体感はとても高かった、と思っている。
ああ。 いまもまだちょっと、ぼうっとしてます。
今週の BS-i の Kanon を冷静に見れるかなあ? 実はそれが、とても心配だったりします。 はい。